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【人民日報記者の訪日手記3】日本の民意が安倍氏の対中国政策を生み出したのか?

2016-04-26 人民網日本語版 人民网日文版



日本に到着した当日午後、鳩山由紀夫前首相を取材した。私は鳩山氏に対し、日本では日本の侵略の歴史に関する認識がどうして広まっていないのか、またどうしたら日本の国民に正しい歴史観を広めることができるかという2点について質問した。(文:丁剛 人民日報社上級記者)

 

鳩山氏は「戦後の教科書が釣魚島(日本名尖閣諸島) 領有問題や南京大虐殺等の事件に関して十分かつ正確に説明していないことが、多くの日本人が間違った歴史観をもつ主な原因と考えている」と答えた。

 

また鳩山氏は「私は中国侵略日本軍南京大虐殺遭難同胞記念館を訪れたことがあるが、今後も機会を見つけて謝罪のため、また訪れるつもりだ。犠牲者の数が30万人かどうかというのは問題ではない。殺したのがたった一人だったとしても犯罪だからだ。私は中国人が『もう十分だ』と言うまで謝罪を続けるつもりだ。これが私が韓国烈士記念碑前で跪いた原因でもある」と語った。そして日本のメディアや政府がどれほどのプレッシャーをかけようと、国民に歴史の真実を説明し続けるだろうとした。なぜなら彼は正確に歴史を認識することが中日韓三ヵ国の関係改善に役立つと考えているからだ。

 

鳩山氏は首相を務めたこともあるが、彼のような考え方は日本ではごく少数派であり、ネットではしばしば一部の急進派の民族主義ユーザーから悪罵されている。鳩山氏が孤立しながらも信念を守り続けていることは、敬意に値すると同時に、日本の世論の右翼化の深刻さを反映していると言える。

 

右翼化の原因の一つとして、中国のGDPが日本を上回った一方で、日本の経済は低迷を続けたままで、一部の人々は羨望から嫉妬し、嫉妬が焦りや恨みを生んでいるのではないかと鳩山氏は考えている。日本経済に危機が生じるたびに、日本国内が右翼化していくという。

 

程永華駐日本中国大使はしばしば日本人の中国に対する心の変化をある比喩を使って表現している。それは、中国は日本人の住む一戸建ての裏庭にある小山で、それが一夜のうちに大きな山となってしまったことに日本人は慣れることができないというものだ。

 

安倍政権の対中国政策の政策の変化はこのような民意の変化によるものだ。2006年、安倍氏は首相になると訪中を宣言、しかし2013年に再度首相となった彼はたちまち対中国の態度を変えた。その主な原因の背景にあるのは民意の変化だ。先ごろ、私は中国のテレビ局が放送した中日関係に関する対談番組を見た。その番組の中で司会者は「安倍氏のこういったやり方は日本国民に受け入れられているようだ」と語っていたが、実はその反対で、国民のこのような考えを受けて、安倍氏の今日のような対中国政策があるのではないだろうか。

 

ある中国人外交官は現在の中日関係は若い世代が担っていると話す。日本側を見ると、罪悪感に突き動かされて中日友好を推し進めてきた古い世代の人々はすでに歴史の舞台から降り、正確な歴史教育を受けていない、アメリカの政治や経済、文化などの影響を大いに受けて育った若い世代が担っている。70年以上前の戦争は彼らの記憶と思考から遠い過去になってしまっているのだ。

 

私達が交流した日本のメディア人もその多くが安倍氏への支持を表明している。日本のメディア人は常に政府に対し、批判的な態度を持ち続けているが、そんな彼らも走馬灯のようにころころと変わってきた今までの首相に比べて、安倍氏はこの20年来、かつてない支持を得ていると語る。安倍氏は保守主義の傾向が強いが、この急進的な保守の政策スタイルまでも国民の多くが認めている。ある日本の同業者は私に日本人も安倍氏の対外政策がアジアの大きな流れに適していると考えていると語った。

 

そのいわゆる大きな流れの背後に立っているのは民主主義の人権と国際法の旗を持った米国人だ。日本人学者の松田武氏はその著書「戦後日本におけるアメリカのソフトパワー」の中で、「覇権の構造とは、非覇権国家に普遍原理としてのイデオロギーや規則、および政治体制を同じくするその他各種制度を受け入れさせ、双方をある種の秩序に基づき基本的に一致させることで、この秩序をより長期的に維持するというものだ。当然ながら覇権とは武力の使用を排除するものではない」としており、これこそまさに「硬軟取り混ぜた対日政策が最終的に日本の60年以上にわたる米国に対する依存体質を作り上げた」ゆえんだ。

 

戦後構築されたこのような体制は長年の運用を経て、米国の価値観やシステムを信奉する国民を次々と生み出してきた。そのため、中国との南中国海問題のような衝突が起きると、彼らは自然と米国側に立つことになる。これは日本メディアとの交流の中で明らかに感じたことだ。我々は歴史観を語り、彼らは価値観を語って、共通点を見出すことは非常に難しかった。

 

日本は島国として、伝統的に自己の生存に強烈な危機感を抱いており、ゼロサムの考え方で周辺やアジアや世界を見ている一方で、日本が「アジアの解放者」のリーダーであるという民族的な一種の優越感を抱いている。日本は明治維新から「脱亜入欧」政策を実行し、この種の危機感と優越感が混ざりながら強まっていき、極端な民族主義となり、最終的に侵略戦争を起こす主な動機となった。第二次世界大戦後は米国がたちまち日本を米国の冷戦同盟に引き込んだことで、日本はその民族性と戦争に関して全面的に反省する機会を失った。

 

現代の人々が日本とASEANや中国などかつて日本が侵略したアジア各国との関係をみると、確かに戦後大きな改善が見られた。多くの人々はこれは日本の巨額な援助がもたらした作用だと考えている。しかし実のところ、援助はその原因の一つに過ぎない。さらに重要な原因は、1970年代、日本にアジアを改めて重視する考えが生じたことにある。これと時を同じくして、中日関係は新たな段階に入った。1978年、福田赳夫首相が鄧小平氏の初来日を実現させ、中日間で「日中和平友好条約」を締結した。しかしこのような政策の変化は内閣政策の範囲内にとどまった。日本の中国に対する政策の変化は戦後の平和主義への民意転換の影響を受けているが、この種の転換は、民族全体が戦争の被害者ではなく発動者という立場からより深く反省するまでには至らなかった。

 

もし日本にアメリカの「アジア回帰」戦略における位置づけを与える場合、少なくとも3つのパラメータを考慮する必要があるだろう。1つは自国をアジアのリーダーとして「最優秀」な民族とみなしているか、2つ目は中日の競争を「ゼロサムゲーム」とみなしているか、そして3つ目は自国が米国と西洋の価値観システムの重要な一員であるとみなしているか、だ。これらのパラメータが中日関係改善の難しさを決定することになるだろう。



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