王升远:晚宴的政治与"大东亚的黎明"——1938年佐藤春夫的北京之行

王升远 东亚评论



注释


[1] 拙文《关注侵华时期日本文化人的涉华创作》,载《中国社会科学报》2013年10月18日。

[2] 拙文《战争期间日本作家笔下周作人的实像与虚像(上)——小田岳夫的<北京飘飘>主人公“田有年”原型初探》,载《鲁迅研究月刊》2011年第1期,第51—52页。

[3] 祖父江昭二、伊藤虎丸等『共同研究:佐藤春夫と中国』、『和光大学人文学部紀要』第12号(1977年)、第147頁。

[4] 三好行雄編『日本近代文学研究必携』、学燈社、1977年、第175頁。

[5] 武继平《佐藤春夫的中国观论考》,载《浙江学刊》2007年第5期,第88-89页。

[6] 据武继平的考察,在改造社版、讲谈社版《佐藤春夫全集》中,“战争时代的作品极少被收录”(参见武継平『「支那趣味」から「大東亜共栄」構想へ--佐藤春夫の中国観』、『立命館言語文化研究』19巻1号、第259頁),为此,武氏对佐藤1930年代之中国观的探讨,主要是基于临川书店版的38卷所谓《定本佐藤春夫全集》。但尽管较之前两种版本,后者收录作品较为全面,但对事涉战争之作品的人为性“故意遗漏”一仍其旧,未见本质性改观。所谓“故意遗漏”之说可参见董炳月:《“国民作家”的立场:中日现代文学关系研究》,三联书店,2006年,第125页。

[7] 日文中,“日华事变”又称“支那事变”,即日本发起全面侵华战争的“卢沟桥事变”(又称“七七事变”)。

[8] 伊藤整、川端康成等編『新潮日本文学小辞典』、新潮社、1968年、第524頁。

[9] 三好行雄編『日本近代文学研究必携』、第175頁。

[10] 日本近代文学館『日本近代文学大事典』、講談社、1977年、第127頁。

[11] 大久保典夫、吉田熈生『現代作家辞典』、東京堂、1978年、第184頁。

[12] 『日本文学事典』、平凡社、1982年、第168頁。


[13] 大久保典夫、高橋春雄『現代文学研究事典』、東京堂、1983年、第103頁。

[14] 三好行雄、竹盛天雄等『日本現代文学大事典・人名事項篇』、明治書院、1994年、第161頁。

[15] 武継平『「支那趣味」から「大東亜共栄」構想へ--佐藤春夫の中国観』、第259頁。

[16] 董炳月《“国民作家”的立场——中日现代文学关系研究》,第125页。

[17] 武継平『「支那趣味」から「大東亜共栄」構想へ--佐藤春夫の中国観』、第269頁。

[18] 祖父江昭二、伊藤虎丸等『共同研究:佐藤春夫と中国』、第156頁。

[19] 保田与重郎『事変と文学者』、同氏『佐藤春夫』より、弘文堂書房、1940年、第121頁。须注意的是,这篇《事变与文学者》与下文所引的收入《文学的立场》中的同名文章,虽均涉及佐藤春夫,旨趣相近,但是内容迥异。

[20] 保田与重郎『事変と文学者』、同氏『佐藤春夫』より、第120、121頁。

[21] 有必要交代1937-1938年日本的新闻界舆论转换的态势:“1937年(昭和十二年),日中战争爆发后,政府根据军机保护法强化了多种管制,内务省警保局向各个府县的特高课课长下达命令:‘要和主要日刊报社通讯社及主要杂志发行所负责人恳谈。’他们要达到的是实现对媒体宣传机构的‘深层指导’。”“‘卢沟桥事变’发生后决定向华北派兵的近卫内阁召集媒体的代表,要求协助实现举国团结等,政府下力量进行宣传战,而报纸一方也基本上附和了这一步调。”“根据1938年制定的国家总动员法,各个媒体机构事实上都被编排在政府军部的下级组织里面了。”参见日本读卖新闻战争责任检证委员会撰《检证战争责任:从九一八事变到太平洋战争》,郑钧等译,新华出版社,2007年7月,第121-122、317页。

[22] 竹内好『竹内好全集(第十五巻)・日記(上)』、筑摩書房、1981年、第214頁。

[23] 佐藤春夫『北京雑報』、『文芸春秋』(16巻10号、1938年時局増刊9・現地報告、1938年6月10日発行)、第93頁。

[24] 佐藤春夫『蒙疆のはなし』、『文芸春秋』(16巻14号、時局増刊10・現地報告、1938年7月10日発行)、第205頁。

[25] 樱井德太郎(1897—1980),福冈人,日本陆军少将。1937年任宋哲元的29军顾问和冀察政务委员会顾问,时为少佐。7月26日广安门事件中,二十师团某大队以保护侨民的名义试图由丰台乘卡车进人北京时.中国军队突然封闭广安门将日军分割,并发动猛烈进攻。此时正在城墙上的樱井德太郎,面对第二十九路军士兵架起的机枪,由10米高的城墙上跳下逃命,使脚部负伤。战争爆发后,樱井任陆军大学校兵学教官、陆军步兵中佐。事变后著有《广安门》一书,站在日军的立场叙述事变经纬以及华北局势。参见桜井徳太郎『広安門』、刀江書院、1939年。

[26] 王俊文『一九三八年の北京に於ける竹内好と「鬼」の発見--ある「惨として歓を尽くさず」の集まりを中心として』、『東京大学中国語中国文学研究室紀要』第10号(2007年11月)、第90頁。

[27] 寺岡峰夫『佐藤春夫論・年譜』、收入宇野浩二、佐藤春夫編『大正文学作家論』、小学館、1943年、第210頁。参观,日语作「見学」。

[28] 在日本对外侵略扩张的历史语境下,“进出”实则与“侵略”同义,不使用后者只是一种政治上的文饰、避讳策略而已。此外,周作人有这样的论断可供参考:“日本对于中国所取的态度本来是很明瞭的,中国称曰帝国主义,日本称曰大陆政策,结果原是一样东西……”。参见周作人:《日本管窥之四》,原载《国闻周报》14卷25期(1936年7月),引自钟叔河编:《周作人文类编7·日本管窥》,湖南文艺出版社,1998年,第48页。

[29] 佐藤春夫『半島旅情記』、『文芸春秋』16巻9号(1938年6月1日発行)、第334頁。

[30] 佐藤春夫『北京雑報』、第92頁。

[31] 保田与重郎『事変と文学者』(『文明評論』1940年6月号)、同氏『文学の立場』より、古今書院、1940年12月、第274-281頁。

[32] 佐藤春夫:『文化開発の道ーー一学者としての対支対策』(『新潮』1939年3月号)、『定本佐藤春夫全集』(第22巻)より、臨川書店、1999年、80頁。

[33] 著名学者吉田精一曾主持过一个以作家为对象的心理诊断,试图从“精神分析”的角度创作出全新的作家论。负责诊断佐藤春夫的片口安史得出的结论是:“有着纤细、易受伤的感受性。虽有些神经质和孤僻的倾向,但一般来说在精神活动层面还是生气勃勃的,不会让人想到他的年龄。表达慎重,同时还有着反论式的表达特征。总是现实的,不会让想象发展到幻想的世界。另外,不会直接表现内在世界,有托于外界事物表达内心情绪的倾向。”片口安史「精神所見・佐藤春夫」、收入吉田精一『佐藤春夫:現代作家の心理診断と新しい作家論』、『国文学』26巻14号(1961年11月)、第34頁。

[34] 佐藤春夫:『文化開発の道ーー一学者としての対支対策』(『新潮』1939年3月号)、『定本佐藤春夫全集』(第22巻)より、臨川書店、1999年、80頁。

[35] 关于这次晚宴,木山英雄(《北京苦竹庵记》,赵京华译,三联书店,2008年8月,第71-73页)、丸川哲史和王俊文等学者已有所涉及,但其关注的问题点是周作人和竹内好的思想问题,而笔者的论述旨趣与其的错位之处在于本文将讨论重心置于来访者佐藤春夫上。

[36] 保田与重郎『事変と文学者』、同氏『佐藤春夫』より、第136頁。

[37] 竹内好『佐藤春夫先生と北京』(『文学通信』1942年2月、第8号)、同氏『竹内好全集(第14巻)・戦前戦中集』より、筑摩書房、1981年、第290頁;竹内好『北京通信・三』(原題『周作人随筆集--北京通信の三』、1938年9月『中国文学月報』第42号)、同氏『竹内好全集』第14巻、臨川書店、1981年、第120頁;保田与重郎『事変と文学者』、同氏『佐藤春夫』より、第135頁;佐藤春夫『蒙疆のはなし』、『文芸春秋』(16巻14号、時局増刊10・現地報告、1938年7月10日発行)第205頁。

[38] 保田与重郎『事変と文学者』、同氏『佐藤春夫』より、135頁。

[39] 竹内好『佐藤春夫先生と北京』(『文学通信』1942年2月、第8号)、同氏『竹内好全集(第14巻)・戦前戦中集』より、筑摩書房、1981年、第290頁。

[40] 保田与重郎:『蒙疆』

[41] 子安宣邦:『たとえ戦争が無償に終わっても--保田与重郎の戦時と戦後』、『現代思想』35巻14号(2007年11月)、第25頁。

[42] 保田与重郎『北京』(『いのち』1938年11月号)、『保田与重郎全集』(第16巻)より、講談社、1987年、第80-81頁。须注意的是,“蒙疆”一词在地政学的意义上,指今内蒙古中部的察哈尔、绥远两省及山西北部一带,“蒙疆”一词出现是日本侵华战争的产物,始于1937年11月22日成立的伪“蒙疆联合委员会”。

[43] 保田与重郎『蒙疆』(『新日本』1938年9月号)、『保田与重郎全集』(第16巻)より、第107頁。

[44] 保田与重郎『事変と文学者』、同氏『佐藤春夫』より、第136頁。

[45] 佐藤春夫『蒙疆のはなし』、第205-206頁。

[46] 竹内好『佐藤春夫先生と北京』(『文学通信』1942年2月、第8号)、同氏『竹内好全集(第14巻)・戦前戦中集』より、第291頁。

[47] 丸川哲史《日中战争的文化空间——周作人与竹内好》,纪旭峰译、载《开放时代》,2006年第1期,第85页。

[48] 佐藤春夫『日華文人の交流』(『朝日新聞』1941年4月22,23日)、『佐藤春夫全集』(第22巻)臨川書店、1998年、第59頁。

[49] 佐藤春夫『蒙疆のはなし』、第205頁。

[50] 引自张菊香、张铁荣《周作人年谱(1885—1967)》,天津人民出版社,2000年,第550页。

[51] 保田与重郎『事変と文学者』、同氏『佐藤春夫』より、第133頁。

[52] 保田与重郎『事変と文学者』、同氏『佐藤春夫』より、第136頁。

[53] 佐藤春夫『蘆溝橋』(1938年7月5、6、7日の『東京日日新聞』夕刊で連載)、『支那雑記』より、第221、225頁。

[54] 据笔者对不同版本的调查统计,截止到1942年6月,《支那杂记》共出版7000部:1941年10月初版発行(3000部)、1942年1月再版(2000部)、1942年6月三版(2000部),其影响力不难估测。

[55] 佐藤春夫『蘆溝橋』、『支那雑記』より、第222-223頁,此处所引为张承志译文,参见《敬重与惜别》,第216—217页。

[56] 佐藤春夫『蘆溝橋』、『支那雑記』より、第226頁。

[57] 竹内好『佐藤春夫先生と北京』(『文学通信』1942年2月、第8号)、同氏『竹内好全集(第14巻)・戦前戦中集』より、第290頁。

[58] 佐藤春夫『陋巷に北京を見る』(『大陸』1巻4号、1938年9月)、『佐藤春夫全集』第1巻、臨川書店、1999年、第153-154頁。

[59] 佐藤春夫『大陸と日本人』、『支那雑記』より、第33-34、38頁。

[60] 拙文《“文明”的耻部——侵华时期日本文化人的北京天桥体验》,《外国文学评论》录用待发。

[61] 佐藤春夫『蘆溝曉月--乾隆御製』、『支那雑記』より、第234頁。

[62] 佐藤春夫『蘆溝橋畔に立ちて歌へる』(『文芸春秋』時局増刊11号、1938年8月)、『佐藤春夫全集』第1巻、臨川書店、1999年、第152-153頁。感谢徐冰教授和尤海燕博士在诗歌翻译方面给笔者的指教。

[63] 祖父江昭二《日中两国文学家的“交流”——佐藤春夫和郁达夫》,杉村安几子译,载《中国现代文学研究丛刊》,2005年第1期,第141页。

[64] 林浩平『佐藤春夫·「神々のひとり」という昂揚ーー「愛国詩」とはなにか』、『三田文学』87巻92号(2008年)、第292、296-297頁。

[65] 张承志《敬重与惜别:致日本》,中国友谊出版公司,2009年,第216页。

[66] 佐藤春夫『蘆溝橋』、『支那雑記』より、第232頁。此段译文在张承志的基础上有少许改动。

[67]  张承志《敬重与惜别:致日本》,第216、218页。

[68]  张承志《敬重与惜别:致日本》,第215页。

[69]  张承志《敬重与惜别:致日本》,第218页。

[70]  佐藤春夫『北京雑報』、第92頁。

[71]  关于这一问题可参见董炳月的《“国民作家”的立场》中对《亚细亚之子》的讨论。

[72] 佐藤春夫『陋巷に北京を見る』、『佐藤春夫全集』第1巻、臨川書店、1999年、第154頁。

[73] 佐藤春夫「からもの因縁--(支那雑記の序として)」、『支那雑記』より、第1、13頁。

[74] 佐藤春夫『北京雑報』、第91頁。

[75] 王向远《日本对中国的文化侵略——学者、文化人的侵华战争》,昆仑出版社,2005年,第212、213页。

[76] 佐藤春夫『からもの因縁--(支那雑記の序として)』、『支那雑記』より、第6、14頁。

[77] 大久保房男『戦争責任の追及と佐藤春夫』、『三田文学』82巻74号(2003年)、第223、229頁。

[78] 武继平《佐藤春夫的中国观论考》,第92页。

[79] 王向远《日本对中国的文化侵略——学者、文化人的侵略战争》,第4页。

[80] 张承志:《敬重与惜别:致日本》,第220页。

[81] 佐藤春夫对石原慎太郎芥川奖作品《太阳的季节》之评价,参见张承志《选择什么文学即选择什么前途》,载《读书》2009年第1期。

[82] 参见王向远《“笔部队”和侵华战争——对日本侵华文学的研究与批判》,昆仑出版社,2005年,第279—282页。

[8] 拙文《今天,我们需要怎样的“日本论”》,载《中国图书评论》2013年第7期,第40页。




东亚评论   

一个有学术、有思想、

 有温度、有情怀的公众号

长按,识别二维码,加关注。

欢迎您的留言与转发。



喜欢请点赞


    发送中