戴建勇〔ダイ・ジエンヨン〕
《三十年、一つの家》家族写真 2018
祖母から母、そして妻の10年を撮った写真まで。また長白新村の“二万戸”、老人ホームから家の立ち退きを巡るいさかいまで…目に見えない上海の改革開放の30年は、戴建勇のレンズのもとで明らかになる。日常的かつ客観的にその移り変わりが捉えられ、そのいずれもが記憶に迫るものである。それらの全てが中国の一つの普通の家庭の情感ある写真の中に写し出されている。
[01]私は知識青年の家庭の子。1993年、上海に戻り就学、母方の祖父母と一緒に暮らした。2000年まで、祖母は長白一村119号7室で和やかに楽しく暮らしていた。ここは上海ではよく知られた2万世帯が住む労働者たちの新しい居住区で、5世帯が1つのトイレと1つのキッチンを共同で使っていた。
01. 若かりし頃の祖母、諸世珍
02. 上海楊浦区2万戸のキッチン、7世帯が共用していた
03. 2001年12月、祖母の家で昼食に集う
04. 2001年12月、長白一村119号7室にいる祖母
05. 2001年、上海楊浦区2万戸の社区の暮らし
06. 1985年、上海の家族写真、この中の男の子が私、載建勇
07. 2002年7月、載建勇と祖母
08. 2013上海楊浦区2万戸の門前の公用のため池
09. 2001年1月、載建勇の妹の娘を抱いた祖母
10. 2014年、祖母が唯一娘に残した民国時代の衣装箪笥、おばの楊麗に200元で売られ、ボロボロになった
11. 2008年、祖母の家、長白一村119号7室の片隅
12. 2013年、祖母の家、長白一村119号7室の片隅
[02]1999年、祖父が亡くなった後、大おばが祖母と一緒に暮らしたがらなかったので、祖母は老人ホームに入った。当初は健康だった祖母だが、2012年に老人ホームのベッドの上で息を引き取った。私はずっと両親に代わって祖母を見舞い、私の妻が妊娠したときには、祖母はそのお腹に触れ新しい命の訪れを感じた。
01. 2006年、祖母の身分証:諸世珍、本籍:揚州
02. 2013年、祖父と祖母の遺影を掛けた室内
03. 2008年、陽光老人ホームの祖母、眠りながら考え事をしている
04. 2006年、定海路まで祖母を日向ぼっこに連れて行く載建勇
05. 2008年11月、老人ホームで縛られている祖母
06. 2011年、老人ホームの祖母の部屋の隣室、永遠に映らないテレビが一台
07. 2012年、痴呆症になった祖母を見舞う妊娠中の朱鳳娟、祖母に新しい命の訪れを感じさせる
08. 2010年、載王を連れて祖母を見舞う母
09. 2011年2月、祖母を見舞い、ヨーグルトを食べさせる載建勇
10. 2012年4月、亡くなる数日前の祖母
11. 2012年4月、やせ細った祖母
12. 2012年4月、祖母はついに旅立った
[03]母は上海の知識青年で、下放され江西省婺源県珍山郷で暮らし働いた。1976年、地元民と結婚し、一男一女をもうけた。上海に帰省した際の写真。
01. 1952年、祖母と母
02. 母の幼少期、外灘で一緒に撮影
03. 2000年、載建勇と母の楊青
04. 1999年、上海に帰省し重病の祖父を見舞う母
05. 2009年、母とおば、長白の昔の家で
06. 2012年、祖母が逝去、祖母の家にいる母
07. 2010年、養老院で痴呆症になった祖母を見舞う母
08. 2009年、載建勇のアトリエにいる母
09. 2012年、上海に戻った両親と孫の載主、陸家嘴にて
10. 2018年8月、母と孫たち、上海の地下鉄の中で
11. 2018年7月、蘇州で家族の集い、両親と載建勇一家、載建萍一家
[04]文化大革命で母は江西省婺源県珍山郷に下放され、父と知り合い結婚して子供を産んだ。ここには婺源での私の生活と記憶がある。
01. 1981年、亡くなった父方の祖父母と、私の江西省婺源の祖先
02. 2006年、祖母の母の墓参り、私を一番可愛がってくれたのは彼女
03. 2005年、婺源のニュータウン
04. 1985年、家族4人で撮影
05. 婺源の名物、清明粿を作る祖母
06. 2000年、婺源の旧市街にあった改修前の人民大会場(現在は取り壊されている)
07. 2000年、結婚する妹が母と撮った写真
08. 2000年、婺源の旧宅、十字街90号(現在は取り壊されている)
09. 2002年、婺源の新居
10. 2004年、婺源の親戚と一緒に
11. 2018年、正月間近に祖母が転び、皆が助けに来た
12. 2000年、婺源の人民大会場でバスケットをする人たち(現在は取り壊されている)
[05]2008年、北京オリンピック開催の年、私は妻の朱鳳娟と知り合い、自分の家庭を持つようになった。
01. 2009年3月、結婚の届けを出した載建勇と朱鳳娟
02. 2009年3月、結婚写真を撮影する朱鳳娟、改修中の外灘
03. 2012年9月、入浴中の載王と載主
04. 2009年10月、長男の載王が生まれる
05. 2017年、兄の載王8歳、テコンドー大会、青が載王
06. 2018年、兄の載王9歳、空手大会で第4回優勝
07. 2018年8月、弟の載主7歳、平泳ぎとクロールがうまい
08. 2009年、朱鳳娟が載王を妊娠し、病院で検査を受ける
09. 2012年1月、米国のカリフォルニア州で弟の載主が生まれる
10. 2016年9月、載建勇の誕生日を家族全員で祝う
11. 2009年10月、長男の載王が生まれる
12. 2012年5月、電動自転車にまたがる載建勇と家族
[06]載建勇の暮らし。カトリックを信仰、上海徐匯区のカトリック大聖堂で結婚。載王と載主の二人の子供がいる。
01. 2005年、上海の董家渡カトリック大聖堂
02. 2009年5月、上海徐匯区のカトリック大聖堂で結婚した載建勇夫妻
03. 2018年5月、全面的な改修工事を終えた上海徐匯区カトリック大聖堂の公開日
04. 2009年5月、上海徐匯区のカトリック大聖堂で結婚した載建勇夫妻
05. 2009年5月、大聖堂で神父の祝福を受ける載建勇夫妻
06. 2010年、ベットサイドのテーブルの上置かれた聖母子像
07. 2009年5月、上海徐匯区カトリック大聖堂で載建勇夫妻の結婚式の招待状
08. 2009年5月、上海徐匯区カトリック大聖堂で載建勇夫妻の結婚式の招待状
09. 2009年5月、結婚した載建勇夫妻のバックには2010年上海万博のイメージキャラクター「海宝(ハイバオ)」が映っている
10. 2011年3月、長男の載王、上海徐匯区のカトリック大聖堂にて
11. 2018年、上海徐匯区のカトリック大聖堂でミサに参加した弟の載主
[07]載建勇の成長記録
01. 1997年、作品が雑誌『芸術世界』の副刊『スナック』の表紙を飾る
02. 1992年、載建勇の江西省婺源県中学の卒業証書
03. 1985年、楊浦公園にて。一番小さな男の子が私、載建勇
04. 1997年夏、同級生と旅行
05. 1998年の載建勇
06. 2000年夏、北京の天安門広場にて。デジタルビデオ青年の載建勇
07. 2013年、アイ・ウェイウェイから散髪してもらった後の載建勇
08. 2015年6月27日、拘留された載建勇が看守所を出所後、最初に撮った一枚
09. 2007年10月、載建勇、北朝鮮の板門店にて
10. 2009年、大学卒業10年の集い、学校で撮影
11. 2010年、アーティストの楊福東が撮った載建勇
12. 2011年、米国Facebook本社にて載建勇の作品「麻痺兄貴」のパフォーマンスを撮影
[08]載建勇が妻の10年を撮影した写真集『朱鳳娟2008-2018』の一部
01. 2013年撮影の『朱鳳娟2008-2018』表紙写真
02. 1994年、8歳の朱鳳娟とカラーテレビ
03. 2004年、18歳の朱鳳娟と両親。大学生の時に父親が亡くなった
04. 2008年11月、カトリック大聖堂のミサで父親を思い出す朱鳳娟
05. 2008年10月、朱鳳娟
06. 2012年11月、ファッションブランド「素然(ZUCZUG)」のモデルを務めた朱鳳娟
07. 2010年7月、朱鳳娟が再度妊娠、ひどいつわり
08. 2011年3月、載王に授乳する朱鳳娟
09. 2009年7月、妊娠中の朱鳳娟、岱山の海辺で
10. 2013年7月、上海夏の夜食の定番、ザリガニを食べる朱鳳娟
11. 2012年10月、あるときの愛の営みの眼差し
[09]母方の祖母が亡くなった後、家の立ち退きが始まり、我々の家は特にひどくもめた。家のことで私といとこがけんかになり、最後には長白一村119号7室は2万戸中、立ち退き拒否世帯の一つになった。
01. 2013年12月、夜の立ち退き拒否世帯
02. 立ち退きによる家族間のもめごとで、借主の変更について仲裁
03. 2013年、立ち退きによる家族間のもめごとで、警察へ通報
04. 2013年、立ち退きによる家族間のもめごとで、警察へ通報
05. 2014年、おばと私は裁判で争った
06. 2013年、立ち退きのことで私といとこはけんかになった
07. 2013年、立ち退きによる家族間のもめごとで、警察へ通報
08. 2013年、立ち退きのことでけんかになり、派出所が仲裁に入る
09. 2013年、壁に付いた血痕
10. 2014年、立ち退き拒否世帯の後ろに新しいビルが建った
11. 2018年7月、祖母の家、長白一村119号があった場所には高層ビルが建った
12. 2013年、部屋のことでけんかをする楊麗おばさん
[10]立ち退き中の楊浦区2万戸、強制的に部屋を取り壊され立ち退きを余儀なくされた家もあり、隣近所の多くが政府を相手に訴えを起こした。
01. 2014年、立ち退き中の2万戸
02. 2013年、強制退去と取り壊しに抗議のペイントをする南京西路591弄の住人
03. 2014年、上海市楊浦区2万戸の立ち退き拒否世帯、載建勇の家
04. 2013年12月、強制的に取り壊される2万戸、隣近所の人々
05. 2013年12月、都市管理、警察、強制取り壊し部隊がやって来た
06. 2013年、立ち退きについて話す隣人
07. 2013年12月、都市管理、警察と立ち退き拒否者との衝突
08. 2013年12月、強制的な取り壊しの前、最後に119号7室で暮らすおばと朱鳳娟
09. 2001年、2万戸の退去が始まる
10. 2001年、上海外灘新開河の取り壊し
11. 2013年、裁判所の立ち退き訴訟
[11]新旧が入れ替わる途中の上海。2000年前後の十六埔埠頭。新開河付近に100年余り前からある古い建物も解体され、街は猛スピードで変わっていった
01. 1980年代にはどの家にも西洋人形があった
02. 2002年、外灘新開河から望める浦東の風景
03. 2004年、長白新村で新旧交代した家
04. 2002年、新開河で100年余り前からある古い家屋も解体された
05. 2002年、改修工事が始まる寸前の外灘新開河の風景
06. 2010年、浦東区定海橋社区定海路
07. 2004年、茂名路の立ち退き
08. 復興中路の社区
09. 2012年、上海の街のブティック
10. 2014年、建築中の上海一高いビル———上海中心
11. 2004年、天潼路の取り壊し
[12]変わりゆく上海の人と空間の関係、多くの人はまだ古い記憶の中で暮らしている
01. 2012年、曹家渡で新しく建てられた教会とオフィスビル
02. 2012年、長白新村の通り
03. 2001年、長白新村の安図路
04. 2013年夏、上海の老人の暮らし
05. 2005年、長白新村
06. 2008年、上海のおばの家(巨鹿路)
07. 2008年、上海の市井の暮らし
08. 2015年、上海市楊浦区延吉中路と隆昌路の入口
09. 2009年、長白新村の部屋にいる朱鳳娟
10. 2008年、ペットを連れた上海の老人
11. 2014年、天潼路を歩く若者、100年前の建物が取り壊しの危機に瀕している