新书:近藤孝弘『歴史教育の比較史』
作者:近藤孝弘 編
出版社:名古屋大學出版會
出版時間:2020年12月
価格:4,500円
判型:A5判・上製
ページ数:328頁
ISBNコード 978-4-8158-1011-5
本书简介
「歴史認識」を語る前に ——。なぜ歴史をめぐって国どうしが争うのか。世界各地で歴史はどのように教えられてきたのか。歴史家と教育学者の共同作業により、自国史と世界史との関係を軸に、四つの地域の現在までの「歴史教育」の歴史を跡づけ、歴史とは何か、教育とは何かを問い直す、未曾有の試み。
作者简介
(執筆順)
近藤孝弘 (序章、第4章、終章)
岡本隆司 (第1章)
武 小燕 (第2章)
小笠原弘幸(第3章)
貴堂嘉之 (第5章)
目录
序 章 歴史教育を比較史する
第1章 中 国(1)—— 史学から俯瞰するはじめに
1 史学という前提
2 宋学という教育と歴史
3 史学の変遷 —— 明清時代
4 歴史教育へ
むすびに代えて
第2章 中 国(2)
—— 共和国の歴史教育:革命と愛国の行方はじめに
1 東洋史学の影響と主体性の追求
2 実証史学の影響と民族主義教育の高まり
3 唯物史観の優位とその動揺
おわりに
第3章 オスマン帝国/トルコ共和国——「われわれの世界史」の希求:万国史・イスラム史・トルコ史のはざまで はじめに
1 普遍史の時代 —— 中世・近世のイスラム世界
2 万国史とイスラム史の相克 —— 近代オスマン帝国
3 トルコ史的世界史叙述の挑戦 —— トルコ共和国おわりに
第4章 ドイツ —— 果たされない統一はじめに
1 多様性のなかの一体性
2 学校における歴史教育の始まり
3 ドイツ帝国における爆発的な拡大
4 緩慢な変容
おわりに
第5章 アメリカ合衆国—— 近代から始まった国としてはじめに
1 アメリカ合衆国の独立と市民教育 —— 17世紀から19世紀
2 分水嶺としての南北戦争と愛国教育 —— 南北戦争~20世紀転換期
3 革新主義期の教育改革から現代の歴史教科書へ
おわりに —— 21世紀アメリカ歴史教育の行方
終 章 歴史教育学の展望
あとがき
図表一覧
索 引
執筆者紹介
序言
近藤孝弘(1963年生まれ、早稲田大学教育・総合科学学術院教授)
なぜ高校では世界史と日本史が分けて教えられるのか、疑問に思ったことはありませんか。2000年代後半に発覚した「世界史未履修問題」は覚えていますか。2022年に導入が予定される新科目「歴史総合」のことはどれくらいご存じでしょうか――
歴史教育も時代とともに変化しています。それでは、世界に目を向けてみると、自分の国や世界の歴史はどのように教えられてきたのでしょうか。
教育研究者…近藤孝弘氏、武小燕氏の2人と、歴史家…岡本隆司氏(中国史)、小笠原弘幸氏(オスマン帝国/トルコ共和国史)、貴堂嘉之氏(アメリカ史)の3人がチームを組み、各国の歴史教育の歴史を描き出した新刊『歴史教育の比較史』が刊行されました。その未曾有の試みともいえる本書の内容を、序章から一部抜粋してご紹介します。
「歴史認識」を語る前に。世界各地で歴史はどのように教えられてきたのか?
本書は、世界史教育と自国史教育という表裏一体をなす二つの教育活動に注目し、中国、オスマン帝国/トルコ共和国、ドイツ、アメリカの四ヵ国におけるそれらの発展過程を描き出すことで、歴史を教えるという行為が持つ歴史的な多様性に光を当てるものである。
なぜ世界史と日本史は分けて教えられるのか
日本の高校に学んだことがある者なら、誰でも一度は、なぜ世界史と、自国史としての日本史が分けて教えられているのかという疑問を抱いたことがあるのではないだろうか。中学校の教育課程にそのような区別はなく、逆に大学では日本史学や東洋史学、そして西洋史学を学べる学科は普通に存在するのに対し、世界史学を掲げる機関は今も限られる。そもそも日本は世界の一部ではなかったのかという素朴な疑問は、多くの高校生にとってそれほど遠いものではないはずである。
このありふれた疑問は、なぜ日本史・東洋史・西洋史の三科目ではないのかという問いと、反対になぜ一科目にまとめられないのかという問いの二つの側面を持っているが、それらに同時かつ的確に答えることは容易ではない。
もちろん、今日の世界史-日本史体制が成立した経緯を説明することは、ある程度できる。ある程度と限定をつけたのは、特に世界史という科目が成立する経緯については必ずしも明確ではないところがあるためだが、基本的には、戦後の教育改革のなかで、新制高校に歴史分野だけで日本史・東洋史・西洋史の三科目を設けるのは地理などの他科目との関係からバランスが悪かったこと、また占領下において連合国軍総司令部の民間情報教育局がアメリカの世界史教育の例を日本側に示していたことなどが、その新科目が設置された要因として重要だったと考えられている。付け加えるならば、特に教育学の観点から、統合的な科目の設置が歓迎されたという面もあるだろう。
しかし、以上は世界史という科目が設置された経緯の説明であって、世界史と日本史を分けて教えることの意味、言い換えれば二つが併存すべき理由は不明なままである。そして、少しでもその答えに近づこうとするとき、日本以外の諸外国の例に目を向けざるを得なくなる。
諸外国ではどのように教えられてきたか
そもそも世界史と自国史を分けずに教える諸国も多い一方、形の上では二つに分けて教えていても、その発展過程では、両者のあいだに今日の日本におけるのとは異なる関係性が認められる諸国もある。さらに世界史ではなく、ヨーロッパ史のような地域的な歴史を設け、単純な二分法には収まらない例も少なくないだろう。一般に学校における歴史教育の展開は国民国家の形成プロセスと緊密に結びついていると考えられるが、その形成過程そのものが多様なため、歴史教育にもバリエーションが発生する。そこに迫ること、つまり各国の歴史教育の歴史におけるマクロな視点での共通性とミクロな視点での多様性の両方を確認することが本書の課題であり、世界史教育と自国史教育の関係への着目はそのための有力な補助線となろう。
本書に収められた論考の一つひとつは狭い意味での比較史研究を進めるものではないが、それらをあわせて読むことにより、四ヵ国の歴史教育史の共通性と差異をある程度把握することができるはずである。言わば歴史教育の比較史研究の素材を提供しつつ、その出発地を探索することが目指されているのであり、それは同時に今日の日本の状況を捉える観点の一つとなることが想定されている。
各国における歴史教育の歴史を比較検討することは、現代に生きる私たちにとって、より実際的な意味を有してもいる。
歴史問題と歴史教育
歴史教育の歴史に注目すべき理由として、たとえば終わりの見えない歴史問題をあげることができる。
この歴史問題について最初に確認すべきは、それは必ずしも日本だけの問題でもなければ、東アジアの特殊な問題でもないということである。世界各地で歴史認識の相違に起因する国家間関係の悪化や国内の社会的緊張が生じている。
通常、歴史問題には複数の要因が作用しているが、共通する要因として、領土等をめぐる緊張した国家間関係の他に、隣国の歴史と歴史教育への理解の不足があると考えられる。つまり、歴史問題に何らかの対応をしようと思えば、隣国において、どのような経験のもとに、いかなる自国像と世界像が伝達されてきたのかについての知識と共有が欠かせない。しかし現実には、この不足を埋める努力がこれまであまりにもなされてこなかったことを今日の世界は示している。
各国の学校で教育内容を形成している歴史は、概ね近代以降の歴史学の成果の系譜に位置づく例が多いものと思われるが、そうした今日の歴史学の成果も、近代化以前の社会で類似した機能を果たしていた言わば歴史“的”な知から完全に自由ではない。歴史学から教育的ないし政治的配慮というフィルターを経て形成される教育内容としての歴史には、より一層その影響が強いであろう。したがって、広義の歴史の歴史を無視しては、国境を越えた有意義な対話は困難である。
他方、教育にも様々な形が存在する。それは学校でばかり行われるわけではない。仮に学校を例にとるとしても、たとえばドイツの教室における歴史の授業とフランスでの授業では、歴史理解の内容以外に、授業の進め方や問いの性格の違いがあることが指摘されており、戦後の両国間の教科書をめぐる対話も、歴史理解についての議論を本格的に進める前に、歴史の授業についての情報交換を行っている。さらに学校そのものが時間とともにその性格を変えていることも見逃されてはならない。
「世界史未履修問題」
歴史教育の歴史に取り組む意義を示すもう一つの例として、2006年に発覚した、いわゆる世界史未履修問題をあげることができる。その事件は、私たちの社会のなかで歴史教育に関する基礎的な知識が不足している様子を明らかにするものだった。特に学習指導要領が世界史を必修と定めても、それを守らない高校が相当数にのぼり、しかもそうした状況が一定期間、社会問題化せずに継続したところには、進学実績を競う受験教育の加熱ぶりだけでなく、歴史科教員も含む教育関係者のあいだで歴史を教える意味について十分に考えられてこなかった様子を見ないわけにはいかない。
さらに全国各地で次々と不正が発覚するなか、むしろ世界史を必修とする一方で日本史を選択科目に位置づけてきた学習指導要領に対して、それを自国史を軽視するものだと批判し、世界史に代えて日本史の必修化を求める声があがったが、これは、小中学校における歴史学習が日本史の内容を中心に構成されている以上、世界史の基礎的な知識は現代に生きる市民にとって不可欠なものではないと言っているに等しい。こうした教育観が現存する背景を理解するため、またその影響力を縮減するためにも、各国の歴史教育の歴史に関する知識は重要な意味を持っていよう。
結局、いわゆる未履修問題は世界史と日本史のうち近現代史の部分を統合する歴史総合という新科目の設置をもたらし、言わば両方を必修化することとなった。こうした統合科目の成立は日本の後期中等教育の歴史において画期的な出来事ではあるが、その新科目の設置がいかなる意味を持つことになるのかについて精緻に考察するためにも、あらためて世界史と自国史の(教育の)関係について検討する必要があろう。
歴史教育のこれまでとこれから
このような問題意識のもと、本書は、地域的・文化的にも、また近代国家形成の経緯においても特徴的な四つの諸国に焦点化してその歴史教育の歴史を見ていく。それにより、日本を含む各国でいま行われている世界史と自国史の教育をより分析的に語るための参照軸が得られるものと期待される。少なくとも所収の五つの論考から、それ以外の諸国の歴史教育の現状とその歴史についても多様な角度からの理解を蓄積していくことの意義が明らかになると思われる。
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本書は長年にわたって蓄積された研究の成果を著したものというよりも、歴史教育関係者はもちろん、できるだけ多くの読者に向けて、歴史教育はどうあるべきかを考えるだけでなく、それがどういうものであるのか、またあったのかについて理解するという新たな課題の重要性を訴えるものである。それは、当然開かれた性格を積極的に追求している。
その意味で、五人の著者が取り上げていない諸国についての分析や、誤認している事実についての補足や修正がなされることが強く望まれる。そうした批判の一つひとつが、本書が目指す歴史教育学を発展の軌道へと導くものと考えられる。
繰り返しになるが、本書は研究の到達点ではなく出発点に位置しているのである。