【Z14次、広州東~瀋陽北】広東から東北までの奥の鉄みち。30時間かけて3000㎞を乗る
Z14次
広州東~瀋陽北
広東から東北までの奥の鉄みち
30時間かけて3000㎞を乗る
広州から瀋陽に向かって走るZ14次のルート
国慶節、鉄分補給のために中国東北に行ってきた。このとき瀋陽までの往復で利用したのがZ12/13次(復路はZ14/11次)だ。同列車は長年英雄列車として親しまれ、広州と瀋陽間3029㎞を29時間半(復路は31時間)で結んでいる。
2両になると切符も買いやすくなる
国慶節の前だから駅の待合室も激混み。しかもホームは一番奥の7番にあり、駅舎の外の通路を伝って降りていく
国慶節前の9月某日、起点となる広州東駅では事前に移動する乗客で溢れていた。重いキャリアケースを引き摺りながら同駅の4階にある待合室に着いたら、すでに長蛇の列。発車60分以上時間があったのにだ。この時点で「ごめんよ」と人混みをかき分けて列の先頭に向かうことは不可能だった。
発車20分前に改札の案内が出るものの、列車は非常にもすぐ下のホームには停まっておらず最近新しく建設した奥のホームに続く通路を迂回して歩かなければいけないのが大変だった。そういや軟臥客が使える軟席待合室の表記が見つからなかった。
ところでこの列車を調べていたら、この列車には軟臥車が2両も付いていることを発見した。軟臥車1両だけだと、裕福になった中間層の人たちが軟臥切符を求めて12306 に殺到するため、発車数日前にならないと軟臥切符を発売しないという馬鹿馬鹿しいことをしてきたが、1両増結するだけでそういう無駄なことをしなくなった。
そのおかげで国慶節前後の1カ月前、この列車の軟臥の切符を毎日チェックしたら全部余裕で買える状態だったのだ。
広州東と瀋陽北を示す標識。機関車はホームからはみ出ていて残念ながら撮れず
もうひとつの発見は16年以降北京を経由しなくなったことだ。最近北京ではなにかイベントがあるごとに生々しい警備体制が敷かれ、北京行きの列車乗客全員に対し2次安全検査というカバンの隅々まで見られる荷物検査を行っており、今年の国慶節も誕生70年ほにゃららで北京行きの乗客には容赦なく荷物の全検査を行っていた。しかし、ルートが北京経由から外れることで、無意味な作業から解放されたのだった。
ホームに進むものの、なんと機関車は先頭ホームからハミ出ているではないか。このハミ出し文化はホームが低かった20年前ならそのまま何とかなったが、今はホームにこそ降りられなくなっているため、美味しものを目の前にしながらありつけられず悔しい思いをするダイエットマンの気分だ。
前代未聞、英雄列車が泣く!食堂車に入れない
17時10分に広州東駅を発車後は軟臥のベッドに横になって仮眠を取る。乗務員が早速切符と寝台票を交換に来た。これが乗車していますという証になる。
軟臥車は国慶節前で当然すべて埋まっており、同じ個室内には同行者と紳士的なおっちゃん2名の合計4名だった。
この列車は、←瀋陽北方面 機関車+19~16+15食堂車+14・13軟臥車+12~2硬臥車+1荷物車 広州方面→ という19両編成だった。
乗務員に切符と寝台票を交換して1時間ほど走ると広東省の大河のひとつ北江の脇を走っていた
食堂車に先行した同行者が戻ってきた。「食堂車の隣の無座(立ち席)の人たちが食堂車で溢れかえっていた」「軟臥車と食堂車とをつなぐ通路の扉を施錠している」
食堂車に無座客が溢れているのは予測できたが通路に鍵を施錠されて食堂車に入れない?普通食堂車の座席は利用者優先だろ?不可思議に進みがら進むと、やはり食堂車側で施錠されていた。
どうやら食堂車の席は立ち席の乗客たちですっかり埋まっており、座る隙きもなかった。本来なら食堂車のスタッフは、いつまでも退かない無座客を整理して本来食事をしたい寝台客に座席を作るのが常識と思っていたが、ここで働くスタッフは常識知らずに生きてきた人間なのか関心がないという感覚。
食堂車への扉が施錠されていたため、車内を巡回していた弁当にありつく
他の乗客が食べている料理を見ると、どうやら45元のセットメニュー1種類のみであまり食指が動く内容ではないようだ。座る場所がないため、一度軟臥車に引っ込んでみた。予備の水と食料は広州東駅で買っていたため、直ちに飢えることはないが、あまりにも人を捌くことができるスキルがなかったため、ちょっとがっかり。
瀋陽局はもともと食堂車の簡素化や廃止、利用制限を実施しているため最初から期待していなかったが、ここまでひどいとは思わなかった。
英雄列車の由来を見て、今の食堂車の低レベルに愕然。21時過ぎに湖南省の郴州駅(ChenZhou)に到着。長沙まではまだ先
部屋に戻る途中、壁には12次列車の栄光をまとめたプレートが飾られていた。1959年7月下旬、遼寧省の綏中で水害が発生したとき、12次列車の乗務員たちが災害に遭った沿線住民を救い出し、英雄列車と表彰された。また、2010年には22年連続で紅旗列車という名誉の表彰もされている。
そんな中国人の模範となる列車の食堂車がこんな低落だとは昔活躍していた人から見ればさぞ悲しむだろう。
幸い1個25元の車販弁当ワゴンが回ってきたのでこれを買って同行者からいただいた雪花ビールとともに1杯やった。味は中の下。
広東省から北に向かうと山の中に入り携帯電波が悪くなるということだったが、正確には、源潭駅から英徳駅区間と、韶関東駅から郴州駅1駅手前の水塘駅区間がとても繋がりにくく、それ以外は意外と繋がりやすいことがわかった。
湖南省の郴州駅には21時3分に到着。食堂車は最悪だけど列車の運行はしっかりしていた。
鄭州の黄河から北は高粱畑
翌日の9時前に鄭州に到着。広州から来た機関車はここで切り離される
翌日列車は8時58分に河南省の鄭州駅に到着。前日広州を出発してから1613㎞を走った。残りはあと1400㎞と14時間。
同駅で19分ほど停車し機関車交換を行う。先頭車両へ行くと、ちょうど広州から鄭州まで担当していた機関車の和諧D1Dが客車からゆっくり離れていき、向かった先には真紅の色を纏った和諧D3Dがゆっくりこっちにやってきた。
新しい次世代動車組の緑巨人(CR200J)が西安、蘭州方面に甲種回送されていった。次に牽引する和諧D3D機関車がやってきたとき、発車ベルが鳴る
とここで発車ベルの合図が。何やねん、まだ出発時間まで10分以上あるじゃん、連結のシーンを見せんかぁ!とぼやきたくなるが、ホームを振り返ると人っ子一人いない。なんか各車両の乗務員が乗車してドアを締めはじめている。
実はここが中国鉄道の面倒なところで、停車時間が残っていようともホームに人を滞留させたくないためか、この列車の乗務員たちホームに人がいなくなり乗り込んだことを無線で確認した後まだ発車まで時間があっても閉じ込めたがるのだった。
ここはZ12次のルールなので顔を真赤にして乗務員に文句を言っても仕方がない。立ち席乗客がわんさかいる19号車から硬座車と食堂車を経由して13号車に戻ったが動きづらい中で動いていためひどく疲れた。
硬座の中を突きって一旦軟臥車に戻り、再び食堂車に戻りくつろぐ。黄河を渡っていた
すでに食事は済ませていたが、同行者と食堂車へ行き朝からビールを飲みながら座っていた。同駅を出発して20~30分ほど走ると黄河を渡る鉄橋に差し掛かる。よく見ると今走っている線形は新しく作り変えた路線で、昔使用していた線形はレールが引き剥がされ昔の面影だけが残っていた。
黄河を渡ると、一面麦畑に様変わりし、ぽつりぽつり白酒の原料ともなる高粱も目に止るようになった。列車はとくに遅延をすることなく速度を140㎞にしながら走っている。
お昼頃食堂車へ行き、45元のセットメニューを注文。弁当に毛が生えたレベルで無理して注文する必要はなかった
お昼ごろ列車は河北省の石家庄駅に到着。食堂車の食事はあまりに褒められたものではなかった。同駅は、もともとは約5㎞先の北側にあったのだが、12年12月に北京と武漢の間に開業した高速鉄道用に元あったヤードの跡地を利用して新駅舎を作った。
長距離列車ホームの東隣に高速鉄道ホームがある。旧駅は石家庄鉄路博物館として再開発されたが、かつてこの駅に停車していた線路は地下路線となり、一旦地面に潜る。
石家庄から天津まではノンストップ。天津駅で肉まんを買うがかなりの人気度は高かった
しばらく京広線(北京〜広州)を北に進み、保定市を抜けて徐水区から列車は右折し、津保鉄路(天津〜保定)を走り覇州というところの手前までは高速鉄道を走る路線を走るものの、そこから先は貨物線に入り一度北に進路を変えてから南下し16時ごろ天津駅に到着する。
ここのホームで天津名物の肉まんが1箱10元で売られており、2箱かった。狗不理かどうか分からなかったけど、とにかく美味しかった。
吉林省
写真は同じ10月中に吉林省で撮った風景だが、東北の奥に行けば行くほどそこまで需要があるのか?とビックリするくらい高粱の畑が永遠と続く
1976年に大地震が起こった唐山を発車した後は北戴河、秦皇島、そして遼寧省の山海関に入る。万里の長城の東端にある山海関の到着時間は19時22分。この辺りまで来るとすでに陽も落ち真っ暗になるが、帰りがけにこの辺りを通ると高粱がたくさん生い茂っており、瀋陽から先に向かうとそれがもっと顕著になる。
これが噂の老村長。10元ぐらいだったが、白酒独特の嫌な香りはしなかった
これらの高粱はモロコシ、またはイネ科の高黍(たかきび)とも呼ばれ、白酒の原料になるほか、動物の飼料としても使われている。もちろん現地の人も消費をしており、お米の代わりに高粱を使ったお粥というものもある。
乾燥した地域に強く稲や麦が育たない熱帯や亜熱帯でも栽培されている。そいうやこの旅行の最中、もらった「老村長」という白酒は強かったけど美味しかった。車内で売っていた二鍋頭はセメダインの香りしかしなかった。
終点に到着そしてホテルに直行
夜に入ると食堂車は精気の抜けかのようにやる気がなかったので車販のカップ麺で凌ぐ。葫芦島北駅はすでに真っ暗
秦皇島から瀋陽北駅までの約400㎞区間は03年10月に開業した秦瀋旅客専用線を走るため巡航速度もぐっと上がる。
動車組や高速鉄道も同じ路線を走るため後から追い抜かされるのかと思ったら特にどういうこともなく終点までの道のりをサクサク進んだ(その代わり復路に乗ったZ14次では、錦州南で24分、葫芦島北で20分、綏中北で50分もの停車があり、合計7本の動車組と高速列車に追い抜かされた)。
22時40分近くにやっと瀋陽北駅に到着。30時間近く掛かったけど、食堂車以外はまだまともだった
終点に到着するまであと何分だろうと軟臥のベッドでうたた寝をしているとようやく乗務員が切符と寝台票を交換しにやってきた。時計を見ると22時。あと30分で瀋陽北駅に到着する。
やはり軟臥とはいえ、歳を取ると30時間の鉄道旅行はそろそろきつくなってくる。体が普通のベッドを要求していることに気が付いた。移動よりもホテルのベッドで眠りたいもの。同行者と駅前の食堂で遅い晩御飯を食べてから駅前のホテルにチェックイン。ベッドが広々していて良かった記憶がある。
この列車は、長らく英雄列車や紅旗列車として永く著名度を誇っていたが高速鉄道の開業により客車列車の地位低下とともにそこまで注目されることはなくなった。食堂車の働かないスタッフはなんとかしてほしいもの。軟臥を2両にして定刻通りに運行できたことは評価できる。2泊3日だったら多分乗らなかったかも。