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中外情侣故事|从艰难到甜蜜的跨国恋情

和之梦 和之梦 2019-05-04

中外情侣故事004期

大家好~又是一个周三啦~今天要给大家带来的是一位日本小姐姐的文章哦~

由日本人提供稿件后小编来翻译的日式文章和之梦也是很久没有做过了,有在学习日语的小伙伴们要认真看看啦~

文/领家彩


从艰难到甜蜜的跨国恋情


我老公的名字叫做彭方俊,1992年出生于湖北随州,今年26岁。

我是领家彩,1989年出生于日本埼玉县,今年29岁。

我从2012年到2014年之间,在湖北武汉的武汉商学院教日语。

老公他是武汉商学院的学生,学的是驯马专业,学校里面有骑马场,我们就是在那里认识的。

我先喜欢上他,虽然我总有一天会回日本,但是我还是想把自己的想法传达给他。

于是我对他说了“我喜欢你,即便不能成为恋人也没关系”这样的话,但是没想到他也对我告白了,从那以后我们便开始交往,那时是2013年。

我在武汉的工作结束后就回了日本,自从我回到日本后,我每年都会到中国见他一次。

但是因为我们两人都有有工作,可以自由支配的时间很少,所以就连每年一次的见面都很奢侈。

2016年他第一次来日本游玩,那个时候我想让他和我的母亲见面,但是遭到了我母亲的反对。

因为他的出现以及会面都太突然了,我母亲觉得很震惊。

但是我想要跟他结婚,我想得到家人的祝福再结婚,却遭到了我家人(我是单亲家庭的独生子)的反对,我们都没有想到会发生这种事。

我对他说“如果我们不能结婚的话……”,用这样的理由跟他分手了。

自从与他分手以后,我为了忘记他开始相亲,联谊、连相亲会都参加了很多。

看见那样痛苦的我,母亲也看不下去,觉得我不能再这样下去了,于是鼓励我说“不如妈妈再帮你联系一下他怎么样?”(那大概是分手半年后)

2017年他再一次来到了日本,和我以及母亲三个人一起去旅行,我们三人后来又一起去上海旅行。

之后母亲提出了他必须会说日语作为我们结婚的条件。他几乎不会说日语,为了能和母亲沟通,母亲便提出了这样的要求。

最初反对我们结婚的母亲说不定也是让我们最后能在一起最关键的人物。

从交往到异地,我们过了大概五年才结婚。

今年6月我和他在中国领了结婚证,也在日本市役所进行了登记。

在交往前我没有一直呆在中国的打算,觉得那样的关系的话还不如不交往算了。 回到日本的时候我也觉得双方的生活环境不一样,感情自然会慢慢消失。

我也曾一度觉得 既然分手了就一直这样持续下去吧,就连结婚这样的事也没认真考虑过。

在我自己的人生规划中,也完全没有国际婚姻的打算(笑),人永远不知道自己的人生下一步会发生什么。

我们一直用中文交流,即使到了现在,碰到不认识的句子也要用词典查询,绝不放弃传达自己想要表达的意思。

当然,由于不同的语感和说话方式,我们也会有争吵,会不小心相互伤害到对方,不过就算用了相同的语言我们应该也会发生这样的情况。

我很感谢我的母亲,虽然她在2012年我去武汉教日语的时候也对我说过“眼不见为净”这样的话,但是连武汉是什么样的地方都不知道的她还是选择尊重我的选择,让我直接去了。

面对独生女的我嫁去中国这样的事,对于身为母亲的她来说是一个很艰难的抉择,也许我成为母亲后也会做出同样的选择吧。

我希望我能成为像母亲那样,把孩子的幸福放在第一位的母亲。

我们的婚礼将于9月25号在他的老家湖北省随州市举行,由于我还没有拿到签证,婚礼的准备就交给了他的父母。

等到今年拿到签证后,我们打算去他工作地点江苏开始新的生活。

国际恋爱(国际婚姻)除了有远距离无法相见的艰苦,也有来自家人的反对,以及严重的语言和文化的阻碍。

但是同样也有为了对方去学习和理解的乐趣;共同感受酸甜苦辣的那种充实感,把远距离的份加在一起对对方更加的疼爱的心情等美好的地方也有许多......


日语原文

彼の名前は彭方俊、湖北省随州出身で1992年生まれの26歳です。

わたしは領家彩、埼玉県出身で1989年生まれの29歳です。


わたしは2012年から2014年まで
、湖北省の武漢市にある武漢商学院という学校で日本語を教えていました。彼は武漢商学院の学生で馬の調教を専攻していました。学校内に乗馬ができる所があり、そこで出会いました。


好きになったのはわたしからでしたが、いずれ日本に帰ることになるので、気持ちを伝えるだけにしようと思い、「好きだけど彼氏彼女にはならなくてもいい」と伝えたところ、彼から逆告白してもらい、付き合うことになりました。それが2013年です。

武漢での契約が終わり、私は日本に戻ることになりました。私が日本に帰ってからは、年に1回、わたしが彼に会いに中国へ行きました。仕事をしていたので自由な時間が少なく、年に1回がギリギリでした。


2016年に彼がはじめて日本に遊びに来ました。そのときに母に会ってもらおうと思っ
ていたのですが、母が大反対しました。彼の話をするのも会わせようとするのも突然すぎて、驚いたのだと思います。


彼とは結婚も視野に入れていましたが、家族に祝福されて結婚したいし、家族に(わたしは母子家庭の一人っ子です)反対されてまで結婚することは、彼もよく思っていませんでした。なので、“結婚できないなら…”と言う理由で彼とは別れました。

別れてから、彼を忘れるために婚活に力を入れていたんです(笑)合コンに行ったり、婚活パーティーにもたくさん参加しました(笑)そんな私を見兼ねた母が、もう無理だと思ったのか「母がもう一度(彼に)連絡してみれば?」と背中を押してくれました。(別れてから半年ぐらいでした)


2017年に彼がまた日本に来て、母と3人で旅行に行きました。母を連れて上海にも遊びに行きました。母は彼が日本語を話せるようになることを条件に、結婚を許して(あきらめて?笑)くれました。彼は日本語がほとんどできません。母も彼とコミュニケーションを取るために
、上記の条件を出したのだと思います。初めは結婚に反対していた母でしたが、一番のキーパーソンも母だったのかもしれません。

付き合ってから遠距離を経て、約5年で結婚に至りました。
今年の6月に中国で入籍をし、日本の市役所でも報告を済ませました。

付き合う前は「ずっと中国にいるつもりはないし、今だけの関係なら付き合わない方がいいや」と思っていました。日本に本帰国するときも、「お互いの環境も違うし、自然消滅にでもなるのかな〜」と思っていました(笑)


一度、別れてはしまいましたが、ここまで長く続き、まさか結婚するとは、正直考えもしませんでした。自分の人生設計の中にも、国際結婚予定は全然ありませんでした(笑)人生何が起こるかわからないものです。


わたしたちは中国語でコミュニケーションを取っています。今でも、わからない言葉は辞書で調べながらですが、伝えたいことは絶対に諦めずに伝えています。もちろん、ニュアンスの違いや言い方によって、お互いが傷ついたり、けんかになったりすることもあります。でも、それは同じ言語を使っていてもあり得ることです。


母には感謝しています。2012年に武漢で日本語を教えることになったときも、「知らぬが仏」と言いますか、どんなところにあるのかもよく知らないまま送り出してくれました。一人娘であるわたしを中国にお嫁に出すことも、母にとって苦渋の決断だったと思います。もし私が母親になったら同じことができるか…。わたしも母のように、子どもの幸せを一番に考えてあげられる母親になりたいです。


結婚式は9月25日に湖北省の随州市で挙げます。彼の実家です。
まだビザが取れていないので、結婚式の準備は彼の両親と彼に任せています。年内にはビザを取り、彼の職場がある江蘇での生活をスタートさせる予定です。

国際恋愛(国際結婚)は遠距離で会えない辛さや家族の反対、言葉・文化に壁など大変な思いをすることもありますが、相手のために学び、理解しようとする楽しさや、苦楽を共に乗り換える充実感、遠距離の分相手を愛おしく思える気持ちなど、すてきなこともたくさんあります。



小编结语

感谢领家彩小姐姐给我们分享她与丈夫之间的故事,大家看完感觉怎么样?

正如小姐姐在文中提到的“人永远不知道自己的人生下一步会发生什么”,人生真的是一段很奇妙的经历,你永远无法预测下一秒你会遇到什么。

如果有得选择,可能很多异国恋的情侣都不会选择这一段注定会遭受很多困难的恋情,但是喜欢这种东西就像感冒,是藏不住的。

希望经历这些困难走到一起的有情人们都能幸福,也希望看到这篇文章的你能有一段幸福美满的恋情,我们下期再见~




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文章已于修改

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