结婚不是人生必经之路:日本单身的人将越来越多
1人でも「寂しくない」未婚者が増える背景
就算1个人也不觉得寂寞的单身人士越来越多,其背景是?
「常に部外者だった。どこにも属したことがない」。
“总是融入不了,哪儿都插不进去。”
宇多田ヒカルさんの言葉です。昨年6月に放送されたNHK『SONGSスペシャル』において、彼女の抱える「所属感のない孤独」が自身の口から語られていました。
这是宇多田光在去年6月于NHK播出的《SONGS》特番中,亲口说出的话语。并且表示自己感受到“没有归属感的孤独”。
藤圭子さんを母親に持つという特殊な家庭環境、両親の離婚、米国移住や度重なる転校など、少女だった彼女にとって、家庭も学校も「所属の安心を得られる居場所」ではなかった。それは、デビュー後多くのスタッフに囲まれた中においても同様だったようで、結局彼女は「所属感のない孤独」と常に向き合い続けてきたのかもしれません。
她的家庭情况非常特殊,母亲是(歌手)藤圭子,经历了父母离异,多次转校、移居美国等,对当时还处于青春期的宇多田来说,无论是家庭还是学校都不是可以安心的归属地。就算出道后,被众多工作人员所围绕,但孤独感仍然没有消失,说不定她与这份“没有归属感的孤独”常年斗争着。
所属を失うことで孤独を感じる
失去归属而感到孤独
こうした「所属感のない孤独」を感じている若者も多いのではないでしょうか? いや、若者だけではありません。定年を迎えた高齢者も、フリーランスで働く人も、離婚や死別などでソロに戻った人も、今後多くの人たちが「所属を失うことでの孤独」を感じるようになるでしょう。それは、個々人の問題ではなく、もはやコミュニティというものが所属によって成立しえなくなるからです。
像这样有“没有归属感的孤独”的年轻人是不是很多?可不仅仅是年轻人,到了退休年纪的老年人、无固定单位的打工者、因离婚或丧偶等原因恢复单身的人,今后会有越来越多的人都会感受到“没有归属感的孤独”。这已经不是个人的问题,而是由于共同社会团体的分崩离析而无法成型。
かつて、地域・家族・職場といったコミュニティは、「人々の居場所」でした。そこに所属している人々は、「自分はこのコミュニティの一員だ」という安心感が得られます。
过去我们把地区、家庭、工作单位这一类共同体成为“人们的所在之地”。有归属地的人,会有“自己是此共同体中的一员”的安心感。
だからこそかつてのコミュニティは「ウチとソト」の境界線を明確化して、ウチの安心を強固なものにしていたわけです。
因此,过去的共同体在“里和外”的界限上十分明确,在“里面”的安心感特别强。
しかし、こうした安心できるコミュニティは、社会学者のジグムント・バウマン氏やウルリッヒ・ベック氏らの予言どおり融解し、不安定で流動的な「個人化する社会」に移行していきます。
但是,这种让人安心的共同体逐渐溶解,就像社会学家Zygmunt Bauman和Ulrich Beck预言的那样,它正以不安定的形式变成流动的“个人化社会”。
事実、地域のコミュニティは都市部ではほぼ消滅していますし、職場のコミュニティもかつてのような安心は提供してくれません。昭和的な大家族形態も少なくなり、そもそも非婚化で家族コミュニティを持たない人も増えています。所属の安心が失われていくわけです。だからといって、未来は「暗黒の孤独社会」になるのでしょうか?
事实上,地域共同体几乎已经在都市中消失了,而职场从来就不能给人安心感。像昭和时期那样的大家族形态也越来越少,不结婚且没有家族共同体的人越来越多,那么安心感自然就消失殆尽了。尽管如此,我们的未来会成为“黑暗的孤独社会”吗?
イギリスが孤独担当大臣のポストを新設したというニュースが出て以来、「孤独は死に至る病」「孤独リスクはタバコや肥満より悪影響」などという記事も目にしますが、そもそも孤独というのは誰にとっても共通の悪なのでしょうか? もちろん、1人でいることをストレスと感じる人もいますが、1人でいることを快適と感じる人もいます。
自从英国设立孤独大臣,看到宣传海报的新闻以来,也常会看到“孤独是一种致死症”“孤独比香烟、肥胖的影响更恶劣”等报道,但孤独真的对谁来说都是不好的吗?有人会觉得独自一人压力很大,但也有人会觉得一个人乐得轻松。
2015年出生動向調査でも、35歳未満の未婚男女のうち「1人の生活を続けても寂しくないと思う」人は、男性48%、女性36%もいます。しかもこの数字は1997年と比べてかなり上昇しています。
据2015年度的出生动向调查结果来看,未满35岁的未婚男女中,对于“就算一个人生活也不觉得寂寞”的男女比例分别是48%和36%。而且这个数字与1997年时相比,有了大幅度的上升。
1980年代まで日本は皆婚社会でした。そのため全員が結婚を希望していると考えがちですが、『「独身の9割が結婚したい」説の根本的な誤解』にも書いたように、実質結婚に前向きなのは30年以上前から男性4割、女性5割にとどまります。
1990年代之前日本还是一个全民结婚的社会,能联想到的是”所有人都想结婚“。但是,如同《“90%单身想要结婚”的说法根本就是个误会》写的那样,实际上积极面对婚姻的人,从30多年前男女比例就停止在40%和50%了。
皆婚だった社会では可視化されなかった「1人を寂しいとは感じない層」も顕在化しています。また、結婚したところで、離別や死別でソロに戻る可能性は全員にあります。現に、婚歴のある独身者だけでも、すでに2015年国勢調査時点で、1500万人を突破しています。
曾是全民结婚的社会已不被可视化,而“一个人也不觉得寂寞的群体”却越来越显著。就算已婚,离婚,丧偶等回归单身的情况也都有可能。有婚史的单身人群,在2015年的国民情况调查时已经突破了1500万人。
「人とつながる」=「友達作り」ではない
“人与人的交往”=不是“交朋友”
孤独を「1人でいるかいないか」という物理的状態だけで考えてしまうと、「集団の中に所属させればいい」という短絡的な解決方法しか見いだせなくなります。むしろ、集団の中にいて、どこかに所属しているにもかかわらず、疎外感を感じてしまうことのほうが苦しいはずです。裏返せば、どんな状態であれ、心が1人ぼっちにならないためにどうするか?を考えていくことが大事です。
我们把孤独仅以“是不是一个人”这一物理性状态来考量,最快速的解释方法就是“让其从属某个集体”。身处集体之中却不知自己应该待在哪里,倒不如说这种局外人的状态更令人苦恼。反过来思考,不管是什么样的状态,应当考虑的是如何让自己的内心不孤单才是最重要的。
結論から言うと、それは各個人が「ソロで生きる力」を身につけ、精神的に自立することだと考えます。「ソロで生きる力」とは、逆説的ですが「人とつながる力」でもあります。これは同時に「自分とつながる力」でもあります。
从结论来说,这是每个人傍身的“独自生存的力量”,是从精神层面建立起来的。而“独自生存的能力”的反面,便是“人与人之间的交际能力”,同时也是“与自己衔接的能力”。
「人とつながる」というと、どうしても「友達を作る」ことだと考えがちですが、決してそうではありませんし、どこかのコミュニティに所属したら安心だということでもありません。
所谓“与人的联系”,容易被认为是“交朋友”,其实并非如此,也不是说属于哪个团体就能安心。
無理に所属しなくてもいいのです。所属することでの安心というのは、それと引き換えに、空気を読んだり、不本意ながら同調したりするという無理も伴います。所属とは、みんなと同じなら安心だ、という共同幻想を信じることです。
不要勉强自己一定要存在于集团之中。有了归属地,获得安心感,但与之换来的是察言观色,是做出违背于自己内心的举动。归属感,是觉得‘大家的想法和我是一致的,所以能够安心’,去相信这份共同的幻想。
今後大切になるのは、「所属しなくても得られる安心がある。誰かと一瞬接続することだけでも安心が得られるのだ」と気づくことだと思います。私は、それを「接続するコミュニティ」と表現しています。
今后的社会中,重要的是“就算没有归属也能获得安心,仅仅和谁有过一瞬间的接触就能得到安心感”,我把这种关系称之为“接续性团体”。
かつての家族、地域、職場は「所属するコミュニティ」でした。しかしこれからは、枠の中に自分を置いて群れの一員になるのではなく、個人と個人とがさまざまな形でゆるやかに接続する形になっていくと思います。
过去的家庭、地区、职场都是“归属性团体”。现在乃至今后,是不再把自己当作是任何组织中的一员,是个体之间以各种各样的模式形成宽松的接续性团体。
人との関係性とは、同じ場所や同じ枠におさまっていることが重要なのではなく、いかに必要なときに接続することができるかが問われてきます。その接続はリアルでもネットでも、直接でも間接でもいい。人でなくても本と接続することでもいい。コミュニティは枠でも場所でもなく、神経伝達系のシナプスのような役割でいいのです。
人类的关联性,重要的不再是存在于同一个地方或同一个组织中,而是如何在必要的情况下能够联系。这种联系可以是在现实生活里,也可以通过网络,直接还是间接联系都没问题。即便不是和个人,和书本也可以。这种团体既不是组织也不是场所,只要像神经传达系统的连接点那样产生作用便好。
学校に居場所がない、職場に居場所がない、社会に居場所がない。そうした「場所に所属することでしか安心できない呪縛」から解き放たれましょう。友達がいない、恋人がいない、愛すべき子がない。自分の外側に何もないからといって、自分そのものまでなくしてしまわなくていいのです。
如果在学校、在职场、甚至在社会上觉得待不下去,就让我们从“没有归属就无法安心的咒语”中解放出来吧。就算自己的‘外部’什么都没有,没有朋友,没有恋人,没有喜欢的人,重要的是不丢失自己的内心。
「つながっている」のに孤独
即使“联系着”却还是倍感孤独
安心とは、自分の外側にあるアウトサイドコミュニティにしかないわけではありません。大事なのは、「安心な場所を探す」ということではなく、「いつでもつながれる誰かがいるって信じられる」ってことです。
安心感,指的并不是自己周围的外部环境。重要的是“相信无论何时都有可以联结的人”,而不是“寻找令人安心的场所”。
一方で、「リアルでもネットでもたくさんの人とつながっているのに孤独だ」という、いわゆる「つながり孤独」という状態に苦しむ若者も増えています。「人とつながる」それ自体を目的化して、「友達になればいい」「ネットでつながればOK」と考えてしまうと、「つながる」ことの意味を見失ってしまいます。
另一方面,“无论是现实生活还是网络,和许多人有联系却依旧孤独”,患上所谓“羁绊孤独症”的年轻人也越来越多。“人与人的羁绊”本身成了一种目的,想着“只要成为朋友就好了”“在网络能交流就好了”,反而失去了“羁绊”的意义。
「つながる」ことは単なる手段です。誰かと会ったり、話したり、行動したりすることは、それが目的ではなく、それを通じて「自分の中に生まれた新しい自分」と「つながる」ためです。言い換えれば、あなたがあなた自身を理解し、認めてあげるために「人とのつながり」があるのです。
“羁绊”单纯只是一种手段。目的不是和谁见面,聊天,一起行动,而只是通过这种手段为了同“内心新诞生的我”相联系而已。换言之,你是为了理解自己,认同自己才会“与他人联系”的。
自分で自分を認めて、信じられるようになれば、すでに自分の中に拠り所となるインサイドコミュニティができている証拠です。インサイドコミュニティとは、自分自身の中に「安心できるコミュニティ」を作り出すということです。所属するコミュニティは、あくまで自分の外側の枠に自分を置くことでした。
认同自己,相信自己,就已经表明自己的内心已有了精神支柱的证明。所谓内部环境,就是自己在自己内心建立起“安全地带”。你的归属地,不过是自己放到了自身的外部环境而已。
しかし、接続するコミュニティでは、逆に自分の内面に安心できるコミュニティを築くことになります。たくさんの人とつながり、自分の中にたくさんの自分が生み出されるということは、いわば「八百万(やおよろず)のあなた」によってあなたの中が満たされるということ。それが、自分のインサイドコミュニティなのです。
然而,接续性共同体反而构建安定自身内心的环境。和许多人有联系,在自己的内在创造更多的自己,也就是让“无数的你”填满你的内心。这就是你自己的内部环境。
孤独を悪者にしても、孤独は解消されない
就算把孤独视作恶人,也无法消除它
宇多田ヒカルさんは歌詞作りの際に、私が「私ではない誰か」に伝えたいことを書くという話をしていました。「私ではない誰か」とは特定の誰かではない。かといって架空でもない。それは「私ではない私」でもあり、「誰かによって生まれた(私の中にいる)私」なのではないでしょうか。
宇多田光在写歌词时曾表示,想要传达的“不是我自己,而是其他人”。但TA既不是特定的某个人,也不是虚构的,可以理解成“非我之我”或是“由不同的人构成(内心)的我”。
だからこそ、彼女が作り出す歌には自分への「願い・祈り・希望」が込められているのです。そして、それが多くの人の心の中にいる「宇多田ヒカルによって生まれたあなた」「同じように漠然と孤独を抱えているあなた」にも共鳴し、心を打つのでしょう。
正因为如此,她创作的歌曲总是包含着对自己的“恳求、祈祷、希望”。在更多人心中,因“由宇多田光诞生的你”“有着同样漠然和孤独的你”而产生共鸣,打动灵魂。
所属することで「集団の中にいる私」で安心していた時代から、「誰かと接続することで生まれる私の中の私」と付き合うことへ。それは個々人がバラバラに生きる世界ではなく、むしろたくさんの誰かと「新しく生まれた私同士がつながる」世界なのだと思います。
从归属于“某个集体”才能安心的时代,发展到“与某人连接诞生内心的我”,这已然不是每个人各自生存的世界,而是和许多人建立起了“新生同盟”的世界。
孤独を悪者にしても孤独は解消されません。「誰かに傍にいてほしい」「誰かに理解してほしい」というように、自分の外側のアウトサイドコミュニティだけに依存してしまうから、孤独というものを極度に恐れたり、嫌悪したりするのです。それは孤独のせいではなく、「あなたの中のあなたが足りない」からです。
把孤独视作恶人并不能消除它。“想要谁待在身边”、“想要得到别人的理解”,因为依赖自己周围的外部环境,所以会对孤独极度恐惧和厌恶。这并不是孤独的错,而是“你内心中的自己不够分量”。
宇多田ヒカルさんの「道」という曲には次のような意味の歌詞があります。「一人で歩いていたとしても、私は孤独ではない」。そう思えることが本当の「つながり」であり、自立なのだと思います。
宇多田光《道》的歌词作者我是如此理解的:“就算是一个人的旅程,我也并不孤独”。这样的想法才是真正的“羁绊”,能自立的人。
-感谢阅读-
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